『彼』の部屋には一枚の絵が飾られている。

それは忙しい身でありながら多趣味だったボンゴレ9代目が描いたもので、9代目自身が存命中に彼へ贈ったのだという。

言っては何だから口には出さないが、素人の趣味の域を出ない作品だ、とディーノは思う。

とんでもなく下手というわけでもないが、何の変哲もない、ただの海の絵。
制作者を明かされないまま感想を求められたなら、きっと見た者全員がそう評するだろう。
事実、彼の口からもそんな風な台詞を耳にしたことがディーノにはあった。
薀蓄を語ることはないが、彼は身の回りに置くものの嗜好にはことのほかうるさい性質で、それは私室にあるもの、それこそこまごまとした調度品ひとつからもうかがえた。

それでも彼の部屋の、象牙色の地にラベンダーのストライプを薄く施した壁紙には、四角く切り取られた海が浮かんでいるのだ。
もうずっと、長いこと。
きっと、彼の主であった老人から絵を譲り受けた、その日から。


どんなにスケジュールがタイトな日の朝も、彼は海の前に立つ。
姿勢を正し、帽子を取り、心もち見上げる角度で。とても真摯に。
これで何度目だったか。見慣れて久しいその場面に出くわしたディーノは、彼に問うた。

「その海って、何処のなんだ?」

側によれば、面倒そうにちらと視線を寄越された。
邪魔をするなとでも言いたげな様子に、内心ディーノは溜息をつく。
仮にも一緒に夜を過ごした相手に対する態度ではない。そう思ったが、黙って彼を見つめ、返事を待った。
そうすれば彼が自分を無視しきれないのだと、ディーノは知っていたから。

「…さあな。」

程なくして、リボーンが折れた。
無駄な意地を張ることを、彼はもともと好まない。時間は貴重だ。彼とてディーノの性格は把握している。付き合いの長さは伊達ではなかった。
リボーンが視線を外すと、かわりに背中から腰へと腕がまわされた。
上着を身につけていないため、今は剥き出しのタトゥーが、リボーンの視界の端で跳ねていた。

「そっか。でも、調べたら何処か解るかもな。探してみてやろうか?」
「何のためにだ」
「お前が、行きたそうに見えるから」
「別に、そうでもねーけどな」

そう言いながら、まわされた腕に体重を預ける。
寄せられた頬が、思いのほか素肌に心地よいとディーノは思った。

「第一、本当にあるかどうかも解らねーぞ。あの人が何かの前に座って絵を描いてるとこなんか、見たことがねーからな」
「そうなのか?」
「そーだぞ。ああ見えて、割に適当な人だったからな」

ニッと唇をゆがめて毒づくリボーンに、ディーノも声をあげて笑う。

「ひでー」
「でも本当のことだぞ。」
「なあ、リボーン」
「なんだ?」
「……」


――――ひとりで行こうとするなよ。


呟きを最後に、沈黙が落ちた。
答えも、真意を問われることもなく、呟きは空中で溶け、消えたように思えた。
かわりに、ディーノの左肩の日輪へキスがひとつ、ふたつと落とされる。
彼らしくもなく、ためらいの感じられるそれ。
たまらない気持ちになり、ディーノは目の前の黒髪に顔を埋めた。


それでも、彼は海の前に立つだろう。
音の鳴らない飛沫に耳を澄ますだろう。
まるで、その合間へ、自分の身を投げだす時を焦がれるように。
毎朝、毎朝。…毎朝。
彼の一日に始まりがある限り、きっとそれは変わることがないのだ。


「チャオ」


温もりは挨拶ひとつで腕から離れた。
ディーノはそれに為す術もなく、小さな背に手を上げて見送る。


「チャオ」



そうして、始まる一日。

















INDEX



inserted by FC2 system